2009年02月27日
味の手帖 2月号原稿

女性がスープをすするとき、左手で右の髪を支え、両の手を交差させる形でスープを口に運ぶ情景は、何とも女性独自の所作として特に愛おしい。
当の女性は、その形、情景が、男性に与えている何たるかを一つも知らないのだろう。それは道に通ずる型でもあり、最も安上がりな男をおとす光線でもある。(その場合、目線はスープから外さないのも手であり、またスープを口にしたまま上目遣いで向かいに座る標的の目を射るのは言わずもがなの戦術である。同時に笑みか、或いは悲しげな表情を浮かべるかは全体の戦略にかかわってくる)
どうしてその形が、そのような威力を内在しているのだろう。
そんな理由を見出せるはずもないとき、ある一つの引っかかる状況を得た。
夏は夏でじくじくし、冬は乾燥して、私の肘の裏と膝の裏は、年中かゆい。小学生のころから、年によっての大小はあれど、四十年は付き合っているいわゆる適度なアトピー的なる皮膚炎である。
因みに肘の裏の窪みはなんと呼ぶのだろう。膝の裏の窪みもなんと呼ぶのだろう。私にとっては、こめかみやくるぶしよりも、もっと親密に四十年付き合ってきたのに、呼ばれる名前がないことはたった今気が付いた次第だし、少し可哀想な気もするから、ここでは立派にそれを名付けてみる。
「肘裏」と「膝裏」と命名する。「の」がとれただけだが十分な固有名詞となっている。
さて、ある晩、ゆっくりと湯船に浸かっていた私は、気が付けば、両の手で夫々の膝裏を永遠と掻いていた。右手で右膝裏、左手で左膝裏。その膝を抱えるように掻いている姿は、かなり小学生のような、或いは見たこともない類人猿はきっとそうしているであろう、何とも知性が介在できない、口が半開きの状況であることにフト気が付いた。
どうしてだろうと考えた時、やはり右手で右膝裏、左手で左膝裏という行為が、いわゆる右手と右足が一緒にでてしまう極度の緊張による歩行とか、右手と右足が一緒に出てしまうグラビアタレントの始球式と同等の所作であろうということを発見した。
そして私は、更なる偉大な発見をしたのである。
それは、右手は右肘裏を、左手は左肘裏を決して掻けない、という事である!ここではことわざにしておく。
「自らの肘裏は自ら成せず。互いに掻き合いて初めて事を成す。」(自分で自分を掻いているだけでなく、相手を掻いてこそ初めて本来の掻くことを知る、という意)
それは、相手を思いやる気持ち、助け合う行為。
平行にはない、交差がもたらす知的で、愛を内在した所作なのである。
女性が手を交差させてスープをすする形に、知性と愛おしさを感ずる遠因がここに秘めていたことをつきとめて、私は心底身が震えた。
今日の夜は、湯船で手を交差させ、互いの膝裏を掻いてみる。類人猿から現代人への進化を自ら感じながら。。。
