2010年02月28日
味の手帖3月号原稿より
先日、四十八歳の同期の友人がくも膜下出血で他界した。
昨年末には、会社の四十二歳の管理部長が同じくくも膜下で亡くなった。
今まで人の死は、年配者か、或いは大きな震災や事故、殺人事件などのニュースで見るか、映画かテレビの中の大袈裟な出来事と思っていたが、こうやって身近に現れてみると、何だか、むしろ現実には、あっけなくも近くにあって、そして突然音もなくやってくる。あるいは、スゴロクでぞろ目を三回続けてだすと終わり、とでもいうような日々の生活の中に在る。この二人に至っては、きっと本人も気付かぬうちに天上に移動してしまった。
人の死は何かポッカリと虚脱感、無力感のようなものと一緒にあるが、いつまでもそうしている訳にもいかない。むしろその死を見て、残された自分たちは、その分きっとがんばらなくてはならない。
四十代で死ぬことは、野球で言えば四回の表か裏あたりで居なくなる勘定だ。守りはやっていても、攻撃でいえばまだ二回か三回打席に立っただけだ。普段の生活では、野球が九回で終わる実感はない。打席が限られているのも、判ったようで判っていない。判ろうとしない。
先日ある本でスイスの高所ハイキングのガイドさんの話を読んだ。ガイドさんが言うに、観光客が高所ハイキングのツアーに参加し、最後の頂上への登りにそなえてコーヒーハウスで休憩をとると、自分たちはここで待っている、という人たちが必ずいるらしい。そして登り組みを見送ると皆で陽の当たるテラスに出て、景色を見ながらおしゃべりに夢中になり、実に楽しそう。まるでパーティー。
しかし、陽が傾いてくるころ、だんだんと無口になってくる。頂上を見つめる。登り組みが向こうから意気揚々と降りてくる。話はそれで終わる。
登り組みを羨むか、自分を悔やむか、或いは自分への言い訳をさがすか、そのどれかだろう。
コーヒーハウスで何年も美味しいコーヒーを飲んでいるうちに、九回になって、打席がもう廻ってこないことを知るかもしれない。
私たちは、九人のメンバーの一人として地球に生まれている。観客は人間に生まれなかった動物や植物たちだろうか。フライが飛んできたらノーバウンドで取ることや、打って、一塁に走ることも試合の中で先輩を見ながら覚えて、そうこうしながらチームに貢献していかなくてはならない使命というものも知るのだろう。
試合の途中で無念にも出場出来なくなった身近な二人は、コーヒーハウスでゆっくりするよ、なんて言う人ではなかったのに。黙祷。
